花と祝祭
6 ―――1年次
「ただいまあ」
玄関からリビングに声だけ掛け、階段を上がった。先週降った雪がまだ残ってるけど、ここ2~3日は比較的暖かだ。手袋をベッドに放り投げ、ハーフコートを脱ぐ。 タートルネックのセーターの上にジャージを羽織っていると階下から知らない男性の声が両親に拝辞するのが聞こえた。 「お客さんだったのかな?」 9時も回っていたし、玄関で気がつかなかったけど、あのあいさつはなかったか。まずい、怒られる。いやでも客が来てるなら事前にメールくれればもっとご挨拶っぽいことしたのに。
玄関のドアが閉まって充分たってから、ダイニングに行く。母があたしの分だけの味噌汁をよそっているところだった。
「今の誰?」 テーブルに用意された夕飯に手を合わせて箸を上げると、「晴禎くんよ」と意外な返事が返ってきた。 「えっ、なんで、なにそれ?」 思わず強い声が出る。
「なんでってなによう、あんなにあんたに懐いてたのに、ひどい言い草ねえ」 「いやだって」 だからこそなんであたしには会わずに帰りやがったんだよーと思ったからなのだが、母は誤解したまま続けた。 「晴くんねえ、春からまたここで暮らすから。冷たいこと言わずにまた仲良くしてやんなさいよう」 「マジですか」
思わず箸が止まる。いつでも泊まりに来られるようにと、定期的に母が掃除していた隣の部屋を見上げる。もちろん天井しか見えない。 「ちょっとその家族会議いつ開かれたの聞いてない。まさか今さっき? またあたしの意向は無視ですか」 なぜかあの子のことに関してはいつも事後承諾にされてる気がする。
「まあ、話は前々からあったんだけど、決まったのはさっきだったわねえ。翼くんもねえ、今回は迷ってたんだけど、今日晴くんが来たのは決意が固いっていう最終談判でねー。押し切られました。ま、翼くんが決めたら採決。わかってるでしょ」 「わかったよ。しょうがないなあ」
止まっていた箸を動かし始める。うう、ご飯ちょっと冷めた。食べながら5年前の記憶を引っぱり出す。無口な晴禎、大学生達に遊ばれる晴禎、近所の男の子達とカードゲームに勤しむ晴禎。 泣きはらした晴禎。そこで記憶は途切れる。
「……もしかして今15歳?」 「ああそうね、中3だものねえ。あんた品川に高専あるの知ってるう? 京急で通いたいんですって」 「あ? 高校受験ってまだ真っ最中じゃないの? よく覚えてないけど」 「高校受験とはまた別みたいよう。あと、推薦で決まったんですって」 「へー」
自分が普通校しか知らないからあれだけど、高専にも推薦ってあるんだ。いや工業だろうが農業だろうが商業だろうがあるか。
「しかしそうすると、思春期真っ只中じゃありません? めんどくさそーだなあ」 「まあ、そーねー、あんたも一応妙齢の女性なわけだから、あんまみっともない格好でウロウロしないでよお」 「あーハイハイ」 「でもあのこしっかりしてるから、まあ大丈夫じゃないかしら」 中学生男子のしっかりねえ……どれほどのもんだよ。超半信半疑。焙じ茶をすすりながら曖昧に頷く。
「ま、昔と違って遊びに付き合うわけじゃなし、あんたは特になにも変わんないわよう。普通にしてなさい、普通に」 「あーい」 普通に、ね。 けど。数年前の記憶が甦り、箸がまた止まる。
あの後、こちらから連絡をとるのは春臣さんに止められたし、躊躇われた。晴禎はケイタイを持ってなかったし、影から見守るには少々距離があった。就活と卒論に追われて自分のことで手一杯な時期を過ごしたのち、社会人になってしばらく。ふと、あの子は中学生になったのだと気づいた。焦燥感が一瞬稲妻走ったあと、あたしは何かを喪失した。 舌が痺れた。
3月の終わり、まだ寒さと暖かさが入り乱れて着る服に困る頃、晴禎は戻ってきた。
引越は、平日の方が安いからと母の休みに会わせて済ませたので、あたしが会社から戻ったときには玄関に見覚えのあるマークの印刷されたダンボールの残骸が積まれてるだけで、引越そのものは終わっていた。 そして。
「おかえり」
上がり框から、見覚えのない、だけど名残のあるひょろりと背の高い少年が玄関に立つあたしを見下ろしながら、聞き覚えのない低い声であいさつしてきた。野暮ったい眼鏡が反射する。 「……絢音さん? 眉間にシワ、寄ってるよ」 「………ただいま。いらっしゃい、おかえり、晴くん」
こんな顔だったっけ。2、3秒はまじまじとその顔を眺めていたが、晴禎が首をかしげたのでハッと返す。ただいま、よくきたね、これからまたよろしくね。
「ただいま」 はにかんだ笑顔が、返ってきた。
ああ、やっぱり晴禎なのか。これが。 靴を脱ぎ、階段を上がりながら後ろをついてくる晴禎をチラ見する。もう子供とはいえないサイズだ。服すらも合ってないような気もする。
「大きくなったねえ」
自室で部屋着に着替えながら、ドアの向こうにいるであろう晴禎に向かって話しかける。 『中3の後半からいきなり伸び始めたんです。制服足んなくなったんですけど、買い直すのももったいないからパツパツのまま着てました。身ごろはいいんですけど袖とか足首とか思いっきり出てて、アレ結構寒いんですよね』 くぐもった低い返事が返ってくる。顔を見ないと、完全に知らない人間の声だ。顔見ても、ほぼ他人なんだけど。違和感がある。 記憶と整合できない。
とりあえず着替えを済ませてドアを開けると、廊下の手すりにもたれた晴禎らしき人と目が合う。うわ、玄関框分の差を抜いてもまだ見下ろされてる。昔より痩せた気がするのは、背が伸びた錯覚だろうか。 「成長痛って、突然パキッってするんですよね。おかげで身体中痛くて」 「いま身長いくつなの」 「175くらいかな。絢音さんはいくつなんですか」 「あたしは153。うー、20㎝以上差があるのか」 「俺はまだたぶん伸びますよ」 「うわー、あのこがこんなに大きくなった上にまだ大きくなるとか言う。がっかりだー」 「がっかりってなんですか、どういう意味ですか」
焦ったような、不満げな不安げな、低い声。うーん、だめだ、違和感が。気持ちが顔に出るのを見られたくなくて俯く。 「いやいや、おとこのこは背が高い方がみんな好きだよね、いいと思うよ。あたしもあと5㎝欲しかったなー」 中学時代に成長が止まってしまったあたしの身長をひがみながら答える。あたしは変わってないのに、あの子だけがいなくなってしまった。あの、あたしの後ろをついてくる、仔犬のようなあの子はもういない。
だけど、それが寂しいなんて、勝手な言い分だ。 あの子の変化を5年分、見逃してしまった。それを、この少年のせいにするのは違う。仔犬が成犬になるのは当然で、存外大型に育っちゃったのも別にこの子のせいじゃない。
「絢音さんはいいんです、それで」 「どういう意味?」 「俺より小さくなりましたね」 「……キミは『いい』って言葉を誤用してないか」 「別に間違えてないです」 「ほーほーほー」 何が言いたいかさっぱりわからないがまあいい。なにしろ全部違ってる。今更わからない事が増えたってかわらない。
―――自分でも、よくわからないのが、『たしかに晴禎だ』と思う時と『誰だこいつ』と思うのが交互に、むしろ後者が大勢を占めてて、悔しいのか悲しいのか嬉しいのか。 引越祝いを兼ねて全員揃った食卓を囲みながら、あたしはこれからこの子とどう付き合っていけばいいのか、戸惑っていた。
とはいえ、母の言ったとおり、会社勤めの身としては家にいる時間が大学時代とまったく違い、ほとんどない。特に今は期末決算を控えて、通常業務以外の雑務も増えてる時期で休日出勤と残業続きなのだ。その流れで4月半ばまでは晴禎とは寝る前の数言しか話すこともなく、入学式もいつの間にか終わっていたらしく、一息つく頃にはほとんど会話がない状態になっていた。
いや、まあ、故意に避けてるんだが。あたしが。 まいったな。 さすがに5年間こうというわけにはいかない。
そう、知らなかったのだが、高専というのは5年通うらしい。そのかわり、大学卒業と同等レベルになるらしい。詳しいことはわからないが、晴禎が5年この家にいるということは少し前に把握した。 もう少し、まともに話さなければ。 違和感があるとはいえ、あの少年はあの子なのだ。あの傷ついた子が、あのなかにいるハズなのだ。でなければここにいない、ハズ。
晴禎の、休日を確保すべく隣のドアをノックした。
「入学祝いが服でいいの?」 「欲しいなって思ってたから、これがいいです」 「生活費で買えばいいのに…」
家でゆっくり話そうと思っていたけれど、「せっかくだから買い物付き合ってもらっていいですか」との晴禎の提案に「じゃあ入学祝いでも」とのった結果、本日はユニクロ日和とあいなり。 駅前の大型商業施設に入っているこれまた大型のユニクロで、インナーからアウターまでとにかく定番色、言い換えれば地味な色合いの服をほぼ迷うことなくやっつけるように買い込み、施設内のレストランに入った。荷物が多いので、4人がけを確保する。建物の中央が吹き抜けになっているので、内側を向いている窓の外は明るかった。昼時はずらしたのに、曜日のせいか混んでいる。
「でもも少しいい服のがよくない? メンズの若い子向けってどこ売ってるんだろ。マルイ行く?」 「いい服を着る機会がないんで、いいです。それより去年までの服がもう着らんないんで、学校に着てける普段着のローテが増やしたかったから」 「うーん、あたしとしてはお祝い兼ねてだから時計とか考えてたんだけど。あとは眼鏡とか。それ似合ってないよ、はっきり言って」 「時計ってしないんですよね、スマホあるし、実習中はジャマだし。―――眼鏡はこのサイズがいいんです。ちょっとした用心として」 「用心?」 「対人恐怖症気味なんで保護膜です」 「え、そうなの?」 「嘘です」 「……」 「伊達なんですけど、眼鏡がかけたいんですよ」 「……うん、ごめん、わかった。似合ってないって言ってごめんね」
なにかに踏み込んだらしいことだけ判ったので諦める。こいつも秘密主義か。まったくどいつもこいつも。
「まあいいや。とにかく服ね。じゃあガンガン着倒してくれればいっか。駄目になったらまた買ってあげるよ。予算余っちゃったし。ユニクロじゃなくても、好きなお店ができたらそれでもいいし」 晴禎は別に貧乏学生じゃない。春臣さんからはきちんと生活費を貰っているし、お小遣いも春臣さんから出てる。けれど、晴禎はそのお金には極力手をださないようにしてるようだ。夏には余所のバイトも始めると言うし、貯蓄したいと思ってることはなんとなくわかった。
「それいいですね。したらまた一緒に買いにきましょう」
大きめのテーブルを挟んで向かいに座った晴禎は、コーヒーカップを持ち上げてはにかんだ。正直、いまいちまだ馴染めない。サイズも声も違ってしまっているから、目線を下げたら普通に男の人と向かい合ってる気分になる。 いやいや、馴染まなくちゃ。そのための一歩だ。 「人のでも、買い物楽しいから好き。仕事にもなるし」 「駅ビルって、自分とこでお店やってるわけじゃないんですよね?」
この建物は違うけれど、あたしの勤め先が駅ビルや駅前の商業施設を経営するところなので、そんな質問をしてきたのだろう。ちなみに店舗数は関東に7店舗だが、関西進出準備中だ。
「そう。ここもそうだけど、箱とブースを用意して、お店に入ってもらう。お店で人呼んで、回転が上がれば良し、全体の売上げが上がれば良し、人が呼べればイベントが組めて、また人を呼ぶ。そういう仕事だね」 「あんま混んでるのも、苦手ですけどね」 「その意見もわかる。高級感も必要。それは配置と動線で工夫」 「なるほど?」 ざっとの説明を受けた晴禎はカップを手にしたまま周りを見回す。オープンテラス式の席が窓の向こうに張り出していてその分は視界が遮られるけど、ここからでもぐるりと見渡せる。
「さて、早々に買い物終わっちゃったけど、ご飯食べたし帰る?」 「もう少しのんびりしましょう。絢音さんと出かけるの、久しぶりだ」 「そーね、昔は映画とかも付き合わせたね。あれは完全にあたしの趣味だったわー」 「楽しかったですよ。今もよく観るんですか、映画」 「そうだね、ここ映画館多いから。休みの日に朝一の単館上映とか。後は深い時間に、昔の名作2本立てとか結構工夫してる映画館が会社の近所にあって、帰りに寄ったり重宝してる」 「翼さんの影響ですかね」 「でも好きなタイトルは全然違うんだよねー。それに最近はあの人シアタールームを映画よりも音楽聴くのに使ってるかな」 「そうなんですか。でも絢音さん、以前は泣けるのとかは外で観ないって言ってませんでした? 名作とか、大変なんじゃないですか」 「あ、うん、よく覚えてたね。まあでも遅い電車は誰も人のこと見てないから結構平気。寝てれば目が赤くてもわかんないし」 「ふうん」 途切れた会話の空白に、ざわざわと人の音が店内のBGMをさざ波のように強弱する。 カフェオレをすすりながらなんとなく窓の外を眺める。いい天気だ。
「―――晴くんは」 「はい」 「大きくなったね」 「でもまだ足りないです。もっと早く、大人になりたい」 「それは、やっぱり、お父さんが嫌なの?」 「はい」 きっぱりと、言う。結局修復はならなかったんだな。窓の外に視線を向けたまま問うたあたしには、表情は見えない。見ないように、した。
「あれから、どうしてたの」
再会してから、ずっと聞けないでいた質問を、する。なんでそんなに育っちゃったの、どうして帰ってこなかったの、 あたしはもう、いらないのかな。 「絢音さんがくれたSuica、中学上がった後、子供料金じゃなくなったんで東日本エリアで書き換えるまでしばらく使えなくなっちゃって」 「えっ、あっ、そっか」
思いがけない言葉に慌てて晴禎に向かい直す。それは想定していなかった。 「でも今は更新して、通学定期に変えました。ほら」 覚えのあるパスケースから、あの時にはなかった印字が覗く。 「結局親父には白城さん家に行くのは禁止されて、で、俺も意地になって逃げでなんて行くもんかって、啖呵切ったもんで、中学の間はとにかく大義名分を手に入れるためにがんばってました」
「2月に一度、ウチに来たのは?」 「あれはやっと白城家に行けるだけの条件を親父に突きつけて、なのに翼さんが寮に入った方が俺の夢にはいいんじゃないかって言い出したから説得しにきました」 「寮?」
「高専は、県単位で一校が普通で、もともと全寮制のところが多かったんですよ。それに俺みたいに越境して入学するのはできなくて、各都道府県内在住に限定されてるんです。ただ、東京都は住所要件が緩和されて俺にも資格ができたので、神奈川のここからなら充分通えるから、受かったら下宿させてくださいって翼さんに連絡取ったんです。そしたら、ウチの親父のことも考えて、家には来ないで寮に入った方がいいんじゃないかって、言い出されちゃって」 何かまぶしかったのか、晴禎が目を眇める。
「あの家を出たいだけじゃなくて、この家に来たいんだって、談判にきました。あの時にはもう、都立に推薦取れてましたからね。さすがに翼さんも折れてくれたんで、晴れて白城家の仲間入りです。どれだけ俺がここに来たかったか、わかってもらえますか?」 はにかむ笑顔が滲む。 「じゃあなんであの時、あたしに会ってかなかったの」 ぐっと言葉に詰まった晴禎が、それまでじっとこちらを見ていた視線を外して俯いた。 「だって受験が忙しくて髪ボサボサだったし」
「え、なにそれそんな理由……」 「俺だって! ちょっとはかっこつけたいですよ。せっかく色々算段とって大手を振ってこようとしたのに翼さんに渋られて、慌てて出てきたんですから。予定狂いました」 「へー」 「でも、絢音さんがくれた非常用チャージは、引っ越してくるときに遣いました。そのために貰った分だから。あの家を出るためのお金、でしょう。在来線旅、時間かかったけど楽しかったです」 「ん、あたしが予定してた使い方じゃなかったけどね。そうなの」 涙、でるな。あたしが想像して諦めたよりずっと晴禎は忘れてなかった。嬉しいけど、あえて忘れたあたしは狡い。狡い人間が浮かれてにこにこするのは更に狡い。
―――でもうれしい。 「あたしも、会いたかったよ。思ってたより育ってたけど、会えてよかった。泣いてなくてよかった。がんばれる子でよかった」 破顔一笑。いつもより子供っぽい顔を見ると、小さな晴禎と繋がる。同一人物なんだと思える。安心する。
でも、そんなふうに安心するのは、こっちのエゴなんだろうな。晴禎は早く自立したくて、大人になりたがってて。実際本人の言うとおり、ずいぶん大人びてしまったし。たぶんもう、子供扱いしちゃだめなんだ。大人として見なくちゃあ。 もう頭撫でたり一緒に寝たりできないもんなあ。さみしい。でも成長は嬉しい。 「15歳か」 「はい」 ちゃんと、扱わなきゃだめだ。もう子供じゃないんだ。
―――普通にしてなさい
それはムリじゃない? お母さん。 だって晴禎は、あたしに敬語、使う。