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Beautiful Days~碧の日々~

   +2 days

 橙(ともる)と連絡が取れない。

 前日に上げたデータが吸い出されていなかった。容量は足りるので今日の分も上げられるのだが、かつてないことにもやりとする。だが時間が悪い。メールだけ送り、翌日を待った。  しかし変化はなく、メールの返事もない。靄は黒みがかり、日本の時差を無視してスマートフォンを鳴らす。しかし留守番サービスに飛ばされるだけだ。そのまま姉の番号を開く。

『要(かなめ)!? あんた今どこ!?』 「リオデジャネイロの近くだ。橙はどうした、なんかあったのか!?」  姉の勢いに黒靄は『不安』にはっきりと変わった。そのまま怒りと焦燥がブレンドされる。 『もう、なんで出ないのよ……何度も何度も電話したのに……』 「電源切ってんだよ普通のケイタイは……」  海外にいるときは、通常の連絡はiPadでSkypeばかりなのだ。

「それよりなにがあったんだよ」  苛々と問い質すと、潜められた声が躊躇いがちに漂う。 『昨日交通事故に巻き込まれて……手術は終わったけどまだ目を覚まさないの……だいぶひどく頭を打ってて……。とにかく戻ってこれるなら帰ってきて』 「病院は」 『大邦大学附属病院』  事故の近くの病院だろうか。  被害者の中では救出が早いほうだったので、搬送も早かった。幸いスマートフォンが無事だったのですぐに自分に連絡が入り、そのまま緊急手術に移った。  電話口から聞こえる姉の言葉はあまりにも現実味がなくて、ぼんやりと意識が飛ぶ。それが、己が拒否しているからだと気付いて土を蹴る。  今から州都まで戻って空港までタクシーを飛ばして、

「……わからねえ。乗り継ぎもあるし。とにかく一番早いのに乗る。どっちにしても飛行機だけで20時間くらいはかかっちまう」  実際には40時間以上かかるだろう。 『じゃあいつでもいいから、日本に着いたら連絡して。事務所に行かずに一旦うちに来てちょうだい』

 曙光の中で、慌ただしくターフを片付ける。リオの近くなどと言ったが、実際にはその奥地だ。レンタカーを駆って州都を目指す。直通便がないのが苛立たしい。一旦ドバイに出るルートで大西洋、アフリカ大陸、ユーラシア大陸と時間を遡る。今日が長い。けれど橙の上に流れる時間は戻らない。こうしている間にも、刻一刻と。  寝静まった機内で要は、光量を落としたiPadでネットの新聞記事を読みあさった。6人死亡4人重軽傷と大きな事故だが、無料サイトでは詳しい事までは載っていない。新しい情報を求めてひたすら画面を変えた。  眠ることはできなかった。

 八重原(やえはら)家へ行くようにという姉の言葉を無視して、病院へ直行する。もう少しで日付が変わる時間に敷地へ飛び込んだ。  面会時間が終わっていることはもちろん知っている。夜間口から入院棟へ。名前を聞いたときには気付かなかったが、前に友人の見舞いで来たことのある病院だったので院内の構造はうっすら憶えていた。

 だが、姉から病室を聞いていない。機内で調べた事故の規模から集中治療室ではないかと当たりはつけていたが、さすがに以前は用事のなかったエリアだ。案内板を横目に足を進めるも、ナースステーション前で呼び止められた。

「面会時間外です、何のご用ですか」  小柄だが隙の無い看護師が立ちはだかる。

「ここに八重原橙がいるんだろう? 会わせてくれ」 「そういったご質問にはお答えできません。お身内の方に確認を取られて、昼間に来訪してください」 「いるのはわかってる。海外から戻ってきたんだ、融通してくれ」 「ですからここから先はお身内の方しか入れません。警察を呼びますよ!」 「身内だ! 姪なんだ! 確認しろ、顔だけでもいい、見せてくれよ!!」

 癇癪を起こしたとしか取られない態度だと頭ではわかっている。だが立ちはだかる看護師に苛立ちを隠せず、つい先程帰国の証印が押されたパスポートを叩きつける。警備員が距離を測っているのを視界の隅に捉えながら、渋々といった態(てい)の看護師がそれを確認するのをジリジリと待った。

「水原(みはら)要さん、ですね。ご本人様確認と状況は把握しましたが、類縁はわかりかねますので現段階ではなんとも言えません。八重原さんに連絡を取らせていただきましたので、代わっていただけますか」

 若干だが声の硬さが取れた看護師の言葉に頷く。奥から別の看護師が受話器で話しながら出てきた。周囲が静かなため、『ここに来てるんですか!?』と驚く姉の声が聞こえた。要のパスポートを読み上げ、看護師同士で軽く目配せしてから「どうぞ」とそれを寄越された。

「姉貴か、悪りい。でもどうしても明日じゃ駄目なんだ。つうか、姉貴どこにいるんだよ、家じゃなかったのか」 『バカ! 連絡してって言ったじゃない! ……落ち着いて、今そっちに向かうから。詳しいことは会って話すわ。あんたの事だから一騒ぎしたんでしょう。もう、あんたが暴れちゃ看護師さんだって止めるわよ。とにかく大人しくして。橙に怒られるわよ』  橙の名にぐっと詰まる。 「……ああ、悪かったよ、よろしく」 『じゃあ看護師さんに戻して』  受話器を返すと、姉が詫びながらも面会を乞うのが途切れ途切れに聞こえた。拳を握りしめながらも静かに待つ。打って変わって従順な要の姿に空気が弛緩する。警備員はそのまま待機していたが。

 しばらくすると奥から給食当番のような姿の姉が現れた。

「あんたそんな汚ったないカッコで病院こないでよ! 申し訳ありません、お騒がせしました」  血相を変えた姉に怒られる。 「悪いってば。それより橙は」  要の押さえた要請に、姉は看護師を仰ぐ。 「本来時間外ですが、主治医の許可も出ましたのでナース立ち会いのもとで許可します。ついてきてください」

 姉と同様の、水色の予防着に着替え、マスクや帽子や消毒などの面倒な身支度の後にやっと橙の元に辿り着く。しかしその顔を見ることは結局できなかった。視界を阻む滅菌ビニール。その向こうには幾本もの管、包帯、ガーゼ、大判の薄青いシート、酸素マスク。かけられた白布(シーツ)は人とは思えぬ異様な形に添い皺を落とす。

 期待値よりも遙かに重篤な姿に、内臓が冷えていく。胃が暗い穴に落ちていくようだ。どこまでも深く。 「あんな……見えねーよ橙……大丈夫なのかよおい……」  しゃがみ込む要に、看護師が気の毒そうに用心のためですと解説しだす。姉は黙って後ろについていた。

「保護済ですが、開放創からの感染症予防です。骨髄炎等の症状は出ておりませんが、現在はまだ抗生剤を投与して様子を診ているところです。不用意な接触事故防止のためにこれ以上の接近は止めてください」 「わかってる……」 「呼吸も脈も落ち着いてます。ただまだ意識の回復が確認できていません。脳の腫れも引かない状態です」 「……ちくしょう」 「……」 「お前、俺に死ぬなっつっといて、自分がこんなんなってんじゃねーよ、バカ!」 「……お静かに」 「ちくしょう……。莫迦野郎………」

 姉が鼻を啜る音、様々な機械音。橙を見守るいくつもの機械。ここはともかく安全なのだ。危機的状況は抜けたのだ。  しばらくうずくまっていると、看護師がおずおずと退出を促してきた。

「帰らなきゃ駄目か?」 「そうね、要は一旦出直してきて。あたしは残んなきゃいけないから、あんたは自分ちに帰りなさい。面会は11時からよ」 「そういや姉貴は何でいるんだ? 完全看護じゃねえの?」  それで自宅にいるのだとばかり思っていた。

「……親族がひとり、控えなきゃなんないの」 「…………」

 目を伏せて、己を抱くように左手で右肘を掴む姉の言葉の不穏さに、それ以上を訊く気は失せた。

 病院には正味30分もいなかった―――面会は10分にも満たなかった―――のだが、電車は新宿までしか届かず、タクシーを拾うのも億劫で歩いて帰った。どうせ数時間のことだ。要にとってほぼ平坦なアスファルトなど困難は何もなく、黙々と歩みを進めれば2時間程で自宅まで辿り着いた。外気と同じくらい冷ややかな室温を上げるのも面倒で、要はそのまま寝室に向かった。心情的には眠れるかは不明だが、ほぼまるまる2日眠っていない上に身体を動かしたので、少しは休まなければ保たないのもわかっている。着替えもせずに冷たいベッドに潜り込み、目を閉じる。  一人の部屋。

「お前がいなかったことなんて、なかったな」  要が帰る日は必ず『おかえりなさい』と迎える橙。食事と入浴の支度をして待ってる橙。  二人揃った後は互いの外出もあり、要だけが在宅する日もあったが、このベッドで一人明かす夜は初めてだ。  帰ってきているのに、帰っていない、ここじゃない、違和感。 (お前はいつもひとりなのにな)

「女々しいこった」

 自らにぼやき、寝室に漂う橙の残り香を吸い込んだ。

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