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羽化待ちの君

 小さな頃から、たまに我が家にやってくる、『おじ』を名乗る男が好きだった。ヒゲだらけだったり埃臭かったり髪が茫々だったりしたが、現れる度美しい小物や珍奇な物、奇妙な刺繍の羽織物などを橙(ともる)にくれるし、気味の悪い昆虫や爬虫類を、美しい写真に納めてきて見せてくれた。グロテスクなのに、写真ですら触れたくないのに、妙に目を離せない鮮烈で蠱惑的な小生物たち。

 自宅から歩いて15分ほどにあるおじのアパートは、何か出そうなほど淀み暗い気を放っていたが、1年のほとんどを海外で過ごす彼の家の換気のために、母に付き添って何度も通っているうちに慣れてしまった。母が軽い掃除を済ませているあいだ、彼の蔵書を引っぱり出しては眺めていた。

 彼が日本にいる時は、母のお使いで保存容器に詰めた食料を運ぶこともあった。流しに放っておかれた前回分を洗って持って帰るのも橙の仕事になった。小学生の橙から見ても、おじは社会不適合者の一員だった。中学になって知ったことだが、過去にはおじは母に無心もしていたらしい。父が蛇蝎の如く嫌うのも詮無いことだ。

ちなみにおじは「写真家」「トラベルライター」という職種に入るようだが、生き物の写真は学術用の資料集めに使われていて雇われである彼の名前はほとんど出ない。代わりに変名で超三流誌に「世界風俗事情(やわらかい表現)」という土着の文化の方ではないフーゾク体験レポートを連載していて、父が橙を近寄せたがらないのも納得できる。しかし、父は橙がその本のことを知らない前提で遠回しに厭味を放つので、橙は気がつかない振りで受け流す。実際には原稿の手伝いでおじの口述をテキスト起こしして小遣いを貰ったりしていたのだが。

 そして高2になった今、母からバトンタッチした掃除や食事の準備、そして仕事の手伝いをメインに置きつつ、橙は彼に抱かれるためにアパートを訪ねる。

          *

 夏期講習が終わって、中学受験も最終段階に入った秋口、橙は塾の帰り際にみんなが小腹埋めにくるコンビニを出たところで同じ塾の男子に呼び止められた。昨年から伸ばし始めた髪が肩上で跳ねた。

「『やえはら』さん?」 「え、あ、なに?」

 夏期講習中の、特別クラス編成でときどき自分を見てることがある男の子だった。でも小学校は違うし塾でも普段はクラスが違うからほとんど話したことがない。名前も知らなかった。

「オレのこと、わかる? 昔一度だけ、会ったことあるんだけど」 「え、ごめん、わかんない」

 この塾でさえ、夏期講習で同クラスにならなければ知らない相手だ。戸惑う橙に、頬を上気させ、焦(じ)れたように弾んだ声で続けられる。

「八重原さん、オレと会ってるんだよ。えーと、2年の夏休み。前から似てるなーって思ってたんだけど、昨日ハハオヤに聞いたら確かに『八重原』さんって名前だったって。オレ、後にも先にもあんなに褒められたのなかったからよく覚えてるよ」 「ごめん、なにがなにやら…」  彼はなんだか1人でテンション高くなって、駅へ向かいたい橙の逡巡に気づかず腕を引いてコンビニの端に座らせる。他の子達の姿はなくなっていた。

「ホントに憶えてないの? うわあ、ショックだなあ、オレ史上最高カッコ良かったのに」 「えーと」 「八重原さんが変質者に襲われた時、オレが颯爽とやっつけたんだけどなー!」 「なに、それ」  固い声が橙の口から零れた。一瞬、悪質な冗談でからかわれているのかと怒りが胸を吹き上げ、すぐ鎮火した。

「あれ、憶えてないの……?」  初めて気まずげにトーンが下がる。だが思わぬ展開に橙は目を見開いて少年を見返した。同じ小6の、違う学校の男子。信用するもしないもない他人。だが嘘や法螺にはまったく聞こえなかった。 「中山町にじいさんちあるだろ、そこで襲われたの、憶えてない?」 「詳しく聞かせてもらっていい……?」

 明らかに、マズッたと顔に書いてある少年を促す。

「ええと、夏休みにじいさんちに遊びにきてた八重原さんは、河原でさ、花摘んでたんだ。オレはちょうど土手の遊歩道でタローの散歩中で、あ、犬な、近所じゃ割と有名な徘徊じじいが河原を歩いてるのを見たんだ。じじいって言ってもおっさんなんだけど、オレらの小学校じゃみんなそう呼んで近寄らなかったヤツ。

 したらそのじじいが急に屈み込んで、初めて女の子の声がしたんだよ。アイツの影になって、しゃがんでた八重原さんはオレんトコからは見えてなかったんだな。そんでオレ、今思えば無謀だったけど、タローけしかけて土手から駆け下りながらキックかましてやったの。あんたも一緒に転げちゃったけど、じじいが立ち直る前に土手にいた他の大人が集まって、コトナキヲエタってわけ」

「……そんな、こと、が……?」 「あ、ごめん、あんまいい思い出じゃないよな、でもたぶんそんな酷いことになってなかったはずだよ。オレすぐ駆けつけたから!」 「あ…! ありがとう、助けてくれて」  かろうじて謝礼の言葉を絞り出す。

「八重原さんの親も次の日ウチにお礼に来てくれてさあ、ウチの親喜んじゃってもう。ウチにくるよそんちの親なんて大概オレの悪さの報告だったから、感激しちゃって。オレもなんかそんなの初めてだったから、なんだか子供っぽいこと一気にイヤになっちゃって。すっかりイイコ路線に乗り換えちゃったから、まあ、八重原さんはオレんちの運命を変えたと言ってもカゴンジャナイよな」

「大袈裟だよ……。あ、教えてくれてありがとう、引き留めちゃってごめんね、もう帰らなきゃだよね」 「あ、ホントだ、やべ、じゃあまたね八重原さん」 「バイバイ」

 憶えてない憶えてない憶えてない。  イヤだイヤだイヤだ。  ―――だめ。

 その思いとは裏腹に、その晩、チープなホラー映画のように、ひどい夢を見た。

 夢は強烈で、過去にあった本当のことと虚構がない交ぜになってしまったため、橙は嫌でも本当の出来事だけを追う必要に駆られた。汗を吸ったTシャツの腹に手汗を擦り付けながら夢を選別する。

(そうだ) (そんなに昔の話じゃない。もう小2だ。憶えてる。河原で白詰草をあつめて、持って帰ったらおばあちゃんに編んでもらおうと思ってた)

 1人じゃまだうまく編み込めなくて、すぐバラけてしまったから。まだそんなに暗くなってなかったはずだ。あの子も犬の散歩中って言ってたし。立ち上がろうとして、後ろから小突かれた。転んだところになにかが重く覆い被さってきた。 (憶えてる。けど、そうじゃない)

 口と鼻を塞がれて。抗えない重さと呼吸ができない苦しさで。

 ―――『死ぬ』って、思った。

 苦しくて、苦しくて、苦しくて。そして世界がグルグル廻って気づいた時には寝転んで犬に鼻を押しつけられてた。耳許でした荒い息に不明瞭な言葉、湿った手がスカートを潜り抜けて腹を撫でた感触、それらが巻き戻すように襲ってきて、犬の舌がざらりとしたことに誘発されて叫び声を上げた。知らないおばさんに頬を挟まれ、呼びかけられて正気に戻った。

 蘇る感触に背筋が凍った。  何が、とか、どうしてとか、考えてなかった。恐怖と現象の感覚だけがあった。恐怖が「怖い」と言語化されたのも、おばさんにそう言われたからだ。  なぜ忘れていたんだろう。人間の記憶はなんて適当なんだろう。いっそもう一度忘れてしまいたい。

(確かに一瞬だった。今思い出しても、『何か』なんてされてない)

 でもその一瞬は間延びしたようにフラッシュバックする。その後はむしろ途切れ途切れにしか残っていない。 (たぶんおばさんと警察に行ったように思う。別のおじいさんもいた気がする。男の子はそこにはいなかったけど、犬もいなかったから別のところにいたのかもしれない)  母が車で迎えに来て、家に着いたら祖母が泣いていた。

 つまりその当時の橙は、何がおきたか正確に理解していなかったのだ。橙が感じていたのはおおきななにかに潰される自分。息ができないと苦しいという原始的な生存の危機。それは漠然とした命の危険、死の恐怖であって、幼児へのいたずらのそれとは理解していなかった。  結局橙は父や母に暖められて生き返った。そして忘れてしまった。7歳児にとって、死はあまりに遠く、ましてや自分が「殺されそうになった」なんて範疇を超える。現実感がなかった。忘れたくて忘れたのかもしれない。

 ―――そういうことだったのか。  父も母も祖母もあの見知らぬ年配の男性も女性も、わかっていただろう。あの男の子だって、わかっているだろう。

(あたし、ただのこどもだったのに、欲望の対象にされたんだ)

 気持ち悪い。知ってしまった。理解してしまった。

 こわい。また、こどものまま、再び狙われたら。なぜか『死ぬ』ことよりリアルに感じられる。  今はもう、セックスの仕組みも身体の変化もわかる。  でもまだあの時から4年しか経っていない。自分の身体が変化しきっていないことは橙にもわかっている。

 急に、自分の子供っぽさが鼻についた。昨日の少年の言葉じゃないが、一気になにかがストンと落ちた。  おとな。おとなにならなければ。   そうはいっても急になれるものではない。

 なら。

 まずは蛹になって隠れなければ。  幼態のあいだ異様なモノに見つからないように。世界に紛れ込むために。  おとなしく、ひっそりと、目立たぬように。

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