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群青の道をゆく(3)

 日曜の朝、研究室で身支度を軽く調え、無精ヒゲはそのままに慎二は自転車に跨がり大学を出た。自販機でホットコーヒーを購入し、ゆっくりと駅に向かう。  駅前の駐輪場に自転車を預け、敦一と約束した20分ほど先のターミナル兼ハブ駅に向かう。さすがに地元と違い、休日の午前中から人が溢れている。  一体どんな言い訳を聞かされるのだろう。慎二としては事実関係の確認だけで済ませたいが、たぶんそうはいかないだろう。  若干げんなりしながらも、昨晩の浅海を思い出して首を振る。  待ち合わせの店に着くと、慎二の姿を見つけたらしい敦一がすごいスピードで立ち上がるのが見えた。苦笑する。無精ヒゲが慎二より酷い。あまり眠れていないのだろう目の隈と焦りが見える充血した瞳に、少なくともこの兄は本気で浅海を待っているのがわかって安堵した。  幼い頃、そして中学までは兄がいた。  高専へ入学(はい)ってわかったのは、自分がコミュニケーション障害を抱えているわけではないということだ。打てば響くような会話ができる《友人》もできた。  高専は楽しかった。女子が少ないため、本気度の高い男がさっさとアプローチしカップルができあがると、慎二にモーションをかけてくる者はほとんどおらず、恋愛至上主義者も少なかった。かわりに同性からの告白を受けるという目新しい体験もしたが、おおむね平穏な学生生活がおくれたと言えよう。何より理工系には《理屈先行派》が多いため会話に支障がない。父亡き後の就職も視野に入れての進学だったが、敦一が内定を手にした頃には、慎二は学業を続ける方針が家族内で確定された。通常の高校だったら、敦一より先に大学進学か就職かで悩むことになっていただろう。  ところで高専ではなんの因果か、兄とはまた別種の熱い恋愛をしている友人ができ、なぜか相談相手の筆頭として選ばれた。こと恋愛においては自分にその経験も欲求もなく、判断基準は兄とその彼女の日常と他人としての自分の感想だけだったが、先方はそれで充分だったようだ。  その友人にしても、兄にしても、苦悩も含めて大変幸せそうなので、押し付けられる恋愛感情は煩わしいと思う反面、一度くらいならああいう制御の利かない状態を体験してみたいものだと思う。感覚ダイブ型恋愛シミュレーションで無駄に上がる血圧やバラ色の視界や甘い苦味や言葉を失う多幸感や一番死にたくないもう死んでもいい瞬間を体験できるプログラムを誰か造ってくれないものか。そう、現実で体験したいとは思わない。相手も生身なんて慎二には荷が重すぎる。  自分にはないものだからこその興味はあって、有機的な錯誤を取り入れるために心理アプローチを学ぶために常に新しい心理系のデータを仕入れるようにしている。もちろんトンデモもあるのだが、人は「無駄」を愛する。不思議なほど、隙の無い美しいシステムは人を疲弊させる。「遊び」がなければいけない。  シミュレーションは自分で造る気はないのだが、投影による反射/反射による投影は思考実験として重視している。フレームは限定的でいい。わからないことは「わかりません」と言わせればいい。「わからない」機械を人は愛すだろうか。愛するだろう、その不確実さも。  人を動かすのはその人の内に芽生える衝動であって外部からの働きかけは見せかけに過ぎない。その内なる衝動を起こす、見せかけの外因をいかに強く造るか。そこにあるのは「錯誤」。自己投影が意識下で行われる。ひとがひとである限り、システマチックとは常に人に起因してゆくのだ。機械(マシン)に全てを委ねることは人類にはできない。人は機械(システム)すらも愛してしまう。電子世界の中に精霊は棲み、無骨な輪転機は繊細な王女になる。この付喪神システムは日本だけの文化でない。  恋愛能力こそ持っていないが、慎二にだって親愛程度の好意は持っている。  しかし、人間は明らかに異質なかたちのものでも愛することができるのだ。そして、同じ人類同士でも、恋をする相手は異質としか言いようが無いと慎二は思う。《恋》をするのは人間。けれど、投影は人類でもそうでなくても成り立つ。コミュニケーションは相互理解ではなく自らの錯誤の上に成り立つ。それは、慎二が24年かけて得た実感だ。慎二は相手を理解したことなどない。それでも社会の中で生きていける。これはひとつの証左なのだ。  さて、浮気の定義はなんであるか。今回の敦一は酔った上の行為であり、しかも女性の方からの誘いであり、本人曰く始める気も続ける気もない突発事故だという。その理屈が法的に認められるかは慎二にはわからないが、まあ敦一的には本当なのだろう。  では気持ち―――いわゆる『心』はなかったとして、肉体関係が結ばれればそれはイコール浮気になるか。浅海はそう定義していることになる。世間一般でも、まあ、恋人か婚姻相手がいる者がそうでない人間と性交するのはあまり褒められた行為ではない。特に結婚していれば明確な契約違反だ。婚姻を締結していなくても、口頭ベースで違反になる可能性も高い。だからそもそも『浮気』という字面がいけない気がする。『された側がそう思えばハラスメント』のルールと同じでいいだろうか。  ―――つくづく、心の問題は難しい。法律を専攻しなくてよかった。  いささか面倒になってきて、慎二は思考を放り出した。  人間は面白い。人間は面倒くさい。  そんな面倒な人間を前に、慎二のラテが空をむかえる。奢りだというので普段は頼まない季節限定のエスプレッソベースの長ったらしいメニューを飲んでみたのだが、予想以上に甘かった。なので水を挟みながらゆっくり飲んでいたはずなのだが、ストローを吸っても泡しか上がってこない。それだけの時間を目前の人間は掛けているのだ。だが慎二のメモはもう大分前に止まったままだ。  なぜ自分は朝から兄のラブラブ夫婦生活など聞かされているんだろう?  今や完全にループに入った敦一の嘆きに慎二はげんなりかつ苛々かつうんざりしていた。 「お前はわかんないかも、いやわかんないのはわかってるけど、俺だってこのまま死ぬまであさしか知らないのかーって思うことあったよ! でもだからって本気でチャンスがあればなんて思ってたわけじゃないんだ! ちょっと考えればわかるだろ、あのあさに見捨てられるってのは人としてかなり駄目だぞ!?」  これは惚気の一種ではなかろうか。  うすうす、いや、はっきりと、ただの嫁自慢ではないのか。  もしかして、状況は深刻だけれど、痴話喧嘩に巻き込まれているだけではなかろうか。  浅海から話を聞いた時の悲壮感は消え、かわりに道化の虚しさが慎二の胸に湧いてきた。 「わかった。明日の夜、オレんちのほう来て。場所は後でメールする。あさちゃんには丁重にお帰りいただく。伸兄はとにかく平謝りしてあさちゃんにお詫びして。家事でもプレゼントでもしなよ」  浅海が面倒見が良いのは昔からだが、それでも自宅と実家と夫の実家を抱えるのは大変なはずだ。慎二と違い、母代わり期間後も手伝い続けた敦一は家事もそこそこできるハズだ。しかも母でなく浅海直伝なので、内容に不備がでることはあるまい。 「慎!」  熱弁していた弁解を遮って慎二が宣言すると、敦一は紙コップに添えられていた慎二の手を取り強く握った。テーブルさえなければハグされていたかもしれない。20代後半の兄弟が日本の喫茶店でする行為とはとても思えず、慎二はテーブルが妨(さまた)げた未来に密かに安堵した。  大学へ戻り、日曜だというのにここ以外行き場がないのかというムジナたちに混じってデバッグをとりながら、一月前から脱線が本筋なOculus Riftオーナーの先輩の野望に燃料投下したりMakeフェスに参加予定の後輩と販売員契約を外食3回(学食含まず)で締結したり、本来なら敦一に奢ってもらうはずだった昼食を食いはぐれたため―――あのまま愚痴と悔恨と惚気をループされたのでは味もしなくなるというものだ―――抱えていた空腹を研究室の面々と埋めに行った。  夜、駐輪場に自転車を戻しマンションの階段を上がると、玄関ドアを開けると同時に浅海が洋室から飛び出してきた。 「ごめん、ごめんなさいしんちゃん」 「なに?」 「あたし調子に乗ってた。しんちゃんが優しいからって、嫌われたくない。でも一番ヤなタイプなのに、あたし。知ってたのに、愛想尽かされたり、しちゃう?」  浅海の言葉は支離滅裂で、慎二は苦笑した。 「本当にごめんなさい……すっごく浅ましいけど、しんちゃんに好かれていたいの。嫌なのわかる、こんなの。でも本当」 「それくらいはっきり、兄貴にも言えばいいのに」  上着をクローゼットに放り込み、ベッドから慎二分の掛け布団を引き剥いで床に寝転がる。おろおろと膝をつき、自分をのぞき込む浅海に笑顔を向けた。 「昨日のこと、後悔してるんだ?」 「してる。すごく。バカだった。しんちゃんになんて失礼なの」 「じゃあ許したげる。二度としないでね」 「うん。―――ホントに、ごめん。ありがとう」 「そのまま兄貴も赦してやってよ」  浅海の顔が強張った。  慎二としては、引き替えの取引材料にしたつもりはない。浅海はそう感じるかも知れないが。 「あさちゃん、明日は兄貴に会ってね。んでそのまま帰って」 「なにそれ、なんで!?」 「いやもう、オレちょっと、もうつきあえない……」 「どうして、のぶくんがなに言ったの!? ひどいよしんちゃん、そりゃ昨日のことはごめんね、反省してる。でもいきなり追い出すなんて」 「追い出さないよ。あさちゃんは帰る。それだけ」 「同じ……」 「違うよ、あさちゃんは、自分の意志で、帰るよ。大丈夫。会えるよね、もう」 「………」  寝転がる慎二からは、浅海の顔は影になった。しかしその表情はきちんと追える。迷いがよぎるのが見えた。 「あさちゃんは、オレに頼るって決めて、ここに来たんだよね」 「う、うん……そう、だよ」 「オレに決めて欲しかったんだよね」 「う……」 「じゃ信じて。あさちゃんは兄貴といて、幸せになる。オレ達が約束する。今は額面通り受け取れないだろうけど、信じて。オレは嘘をつかない」  浅海は苦しげに眉を顰め、眉間にしわを寄せて目を閉じていた。唇が時折震える。しかし、数度深呼吸をすると、ゆるゆると瞼を開いた。 「兄貴と会う決心、ついた?」 「……うん。あたしやっぱり、のぶくんを嫌いになれない。10年以上も一緒にいて、もういいんじゃないかって思ってみたけど、ダメみたい。  あーあ、昔はこんなん許す女になるなんて思ってもなかった」  自嘲気味に笑う浅海の前髪を一房軽くつまむ。 「あさちゃんは優しいね」 「どっちかっていうとバカ女じゃない? 優しいのはしんちゃんでしょ」 「あさちゃんはバカじゃないよ。ありがとう、兄貴を好きでいてくれて。どんだけ罵倒してもいいよ。したいでしょ」 「罵倒より、増長させたくない。今回赦したら、またしそう」 「するかなあ? 一度越えたハードルは下がるっていうけど、代償がなあ。憔悴してたよ。だいたいね、またこんなことが起きたらオレは兄貴に賠償請求するね。精神的苦痛の補償をしてもらわないと」 「ばいしょうせいきゅう?」 「あさちゃんには悪いけど、オレのダメージもけっこうあるからね。悪気はなくても差別発言もあったしパーソナルスペースは侵食されるし、その上アホ兄貴の惚気を聞かされて、せっかく家でたのにこんなのにまだ付き合わされるなんて」  にこやかに続ける慎二に、ポカンと「苦痛」と零された。 「…………前から?」 「あのね、見てないと思ってたのかもしれないけど、向かいでこっそり手を繋いでたり席立った途端にいちゃつくとか、オレだけじゃなくて母さんにもバレてたよ」 「ああ………」  穴があったら入りたいってこういう時に使うのね、と耳まで真っ赤に染めて浅海がそっぽを向いた。その拍子に慎二の指から髪が逃げる。  付き合い始めの高校生カップルに常識なんて通用しないと、当時の慎二は学んだのだ。 「ま、いい機会だから兄貴はギリギリまでヒヤヒヤさせておこう。テレテレ惚気なんか垂れ流せる身分じゃないって釘刺しておかないと」 「うう」 「あと、話してる最中オレがあさちゃんの手を握っててあげる。兄貴の手を取りたくなるまで、ずっと握ってればいい」 「ホント!?」 「この件では、オレはあさちゃんの味方だからね。もう兄貴を煽るためならオレも協力を惜しまないよ。あさちゃんの気の済むまでいじめてよ」 「あはは」           *  今日は絶対に残業できない。  鬼気迫る前傾姿勢で仕事を片付け、就業時間に机から走り出した敦一は電車に飛び乗った。普段とは違う乗換をし、慎二の住む街へ向かう。家を飛び出した浅海が慎二の元へ身を寄せていると聞いたときには、あまりにも意外で、むしろ腑に落ちた。  冷静さが欲しくて、冷静の象徴のような弟に救済を求めたのは納得できたからだ。  自分の記憶力には自信が無いのだが、両親が弟を扱いかねていることは小学校に上がる前には気づいていたと思う。長じてからの母の言葉では、慎二が2、3歳の頃は自閉症の疑いがあっていろいろな病院や診断を巡って辛い思いをしたらしい。幸い、といっていいのか、アスペルガー症候群よりも定型発育寄りのボーダーだったらしく、4歳を迎える頃には『他の子よりちよっとこだわりが強いな』くらいで言語障害等はただの遅れで済んだそうだ。  しかし敦一の憶えている慎二はもう、まともに遊べるようになってからの印象しかなく、むしろ『ウチの弟は他の奴らとは違うんだぜ!』と自慢していたように思う。大人になった今から見れば、なるほど、他者とのコミュニケーションは壊滅的だったわけだが、慎二の「わかる」ということに対する執着は敦一にもちょっとした知識をもたらしたし、他の兄弟や子供をよく知っているわけでもないから変だとは思っていなかった。両親の態度はむしろ不思議なくらいだった。  結局、父は関係性を曖昧にしたまま慎二の前から去った。  今は母も、戸惑うことなく母子をやれていると思う。  たぶん。  弟が他者と正常な(と言える)コミュニケーションを取れるようになったのは、浅海の根気強い親交のお陰だと思う。自分に対しては警戒心を顕さない慎二が、次に打ち解けたのは浅海だ。母よりも先に。  そう、浅海と慎二を引き合わせたのは自分だ。浅海が慎二をかわいがっていることも、弟が妻を慕っていることも知っている。  ―――だがこんな親密な姿を見てしまえば焦燥に駆られずにいられない。  慎二の部屋に連泊していると聞いたときには何とも思わなかった齟齬が、今あらわになっている。そう、弟も、成人独身男性なのだ。しかもそうとう顔がいい側の。  登場からずっと慎二と手を繋いでいる浅海に、敦一はやきもきせざるを得ず、しかし2人の仲を邪推しようにも『あのね、自分がしたからって人を疑わないで』『オレが兄貴を裏切ると思う? あさちゃんと関係持って「してないよ」なんて嘘つくと思う?』と先手で畳み掛けられ、絶句した。そんなわけないと一蹴され、確かにそうなのだ。敦一の知っている2人はそんな人間でなく、しかし自分のようなまさかという事態もある。ただしそこを追求したら浅海は絶対にもう2度と敦一にチャンスをくれないだろう。ざわつく胸を抑えてひたすら自らの釈明に終始する。する他ない。この場はそのためにセッティングされたのだ。浅海は慎二に説得されて、帰ってくる。慎二が確約したのだからそれは間違いない。自分がここで見せなければならないのは帰ってきて欲しいという誠心だけだ。  当日の入室までの記憶が曖昧で、しかたなくあの時の経緯をバイトの子に話を聞いた。『奥さんバレちゃったんですかあ? 意外に鈍くさいですねー峯岡さん』だ。彼女のほうに特段特別感はなく、関係を続けたいとか実は好きだったとかなかったのはありがたくも拍子抜けで、じゃあなんでその程度の男とあんなことしたのかと小一時間問い詰めたい。だがすることしておいて説教なんてどんな糞親父だろうか。結局のった自分が悪いのだ。  自分の弁明に涙ぐむ浅海の肩を慎二が引き寄せて、はたからは一体どんな関係に見えるだろうか。うだつの上がらない、「いいひと」という形容が一番の褒め言葉の自分と、今では立派なイケメンになった弟と。昨日の無精ヒゲも、それはそれで絵になるなんて、顔のいい男はずるい。今日は(たぶん浅海コーディネートの)服もパリッときめて、そり残しのない顔に涼しげな笑みを浮かべてこちらを見ている。  そんな男の隣で、自分の妻が目を潤ませながら手を繋いでいるのだ。 (ちくしょう、その女はオレのだぞ、オレのかみさんだ)  雑念なのはわかっている。自分は俗物で、普通だ。弟がなにか企んでいるのはわかる。だが嫉妬は自制できない。 「だからあさ、浅海さん、帰ってきてください。なんでもする。あさじゃなきゃ駄目なんだ。お願いします!」           *  浅海がキャリーを敦一に押し付けて駆け寄ってきた。 「ありがとう、いろいろごめんね、迷惑かけないなんて嘘だったし、踏みとどまったのはしんちゃんだけだったし。でもしんちゃんで間違いなかった。本当にありがとう」 「あさちゃん、妊娠してない?」 「はっ?」 「女の人は、エストロゲンとプロゲステロンが交互にくるから、そもそもホルモンバランスが崩れやすいでしょ。そうすると感情の制御が難しくなるらしいね。そこにhCGが増えてたら、体調もだいぶおかしくなるはず。あさちゃんは冷静に考えたって言ってたけど、兄貴の話のショックで当てつける相手の選択とか、無茶苦茶だからね、正常な判断力を失う大本に、体内環境、恒常性(ホメオスタシス)がおかしいのかもよ」  呆気にとられたように、浅海はしばらく慎二の顔を見つめていたが、やがて笑顔になった。 「しんちゃんがそういうなら調べてみる。ありがとうしんちゃん。大好き」  でも用語は何言ってるか相変わらず全然わからないよ、なんでそう呪文みたいなのスラスラでるかな? と笑顔のまま浅海が飛びついてきた。柔らかく弾力のある彼女の身体を、慎二もふわりと抱き返す。視界の端に敦一が飛び上がったのが見えたが、放っておいた。兄にはもっと彼女を大事にしてもらわないと困る。危機感を煽るだけ煽っておくつもりだ。 「兄貴と仲良くね。またバカなことないようにしっかり手綱引いといて。あれでもオレの一番大事な人だからさ」 「うん。あたし、のぶくんと結婚してよかった。こんなかっこいい弟がオマケでついてきて、ステキ過ぎる」  浅海の腕がぎゅっと締まり、それから離れた。 「じゃあまたね、お正月には帰ってきてね!」 「あー、がんばります。兄貴! 2度目はないから、気をつけてよ!」 「わかってる!!」  浅海が敦一に駆け寄りながら慎二を振り返る。手を振ると、苦虫を噛み潰したような敦一と浅海も手を振って、そしてその手を繋いで改札をくぐっていった。  ―――この予定調和のために巻き込まれたのだなと慎二は今は理解している。浅海は戻りたくて家出したのだ。  ひどい話ではあるが、そんなものだろう。  浅海は、自身の「戻りたい気持ち」を慎二に投影したのだ。 (ひとは勝手だ。機械どころか、生きてる人間にさえ投影して押しつける)  けれど、踏みとどまって欲しいと願ったのは慎二の本心でもある。  慎二は浅海を愛せない。他の誰も恋愛の対象にはならない。  観測者として、一番の資質だと、慎二は思う。バイアスがかからない研究をできる事は幸せだと感じる。だからこれでいいのだ。理解してもらえなくて構わない。敦一にも。互いに錯誤を与え合える仲間はもういる。  たったひとりに全てを求める幻想を慎二は追わないのだ。         fin

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