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群青の道をゆく(2)

 八方塞がり。  そんな時に会わされた高校1年女子は、当時の「同世代女子は敵」という慎二の神経を逆撫でしたし、兄が遠くなった気がして無性に悲しく不快だった。だから兄の取りなしを無視して邪険にし、半ば無視し、早口でその時読んでいた古典物理学概論からマクスウェルの方程式を解説して煙に巻いたりしたのだ。  だが、浅海はそんな慎二の態度をおおらかに受け入れ、慎二が日々根をあげていた『女子問題』に回答をくれたのだ。彼女は慎二が知らない女子の打算や計画や小狡い作戦を看破し―――そばで聞いていた敦一が泣き出しそうになっていたが―――併せて純情や健気さも教授してくれた。基礎知識が増え、また対象数があがればそれだけ観察眼も磨かれ、半年後には女子に恨まれず男子に妬まれず『峯岡慎二は女子(という性)に興味ない』を定着する事ができた。(それが理解できない人間は男女共に多数いたが、どんな女子にも興味がないというのは男子に支持され、軋轢はなかった)  後日、敦一がそのためのフォローに浅海を連れてきたのだと知って、慎二は本当に2人に感謝した。兄と、兄が高校で出会った浅海が学校の常識を教えてくれたから、その後の慎二は大きな衝突なく中学生活を終えられた。  進学についても、高専という選択肢を提示してくれたのは敦一だ。ただし、家からは通わず入寮を決めたのは慎二自身である。自分の面倒をみる必要がなくなれば、母と兄が楽になるのは確かで、そのための費用は父の遺産があった。―――父は慎二が中学に入ってすぐ、勤務中の路上で交通事故に遭い、帰らぬ人となっていた。母の衝撃は凄まじく、魂が抜けたような彼女の代わりに敦一と父の弟の叔父が葬式と会社とのやりとりなどの手続きを工面した。その後も母は寝込んでしまい、敦一がしばらく家をとり回す事態となった。  入ったばかりの部活を辞め慣れない家事に奮闘しつつ、かつ中学より格段に難しくなった高校授業も遅れるわけにいかない敦一の苦労は如何ばかりだったか。兄弟揃って母の手伝いなどしなかったばっかりに慎二も兄の手助けにならず、しかし1ヶ月もすると全体的に荒んでいた家の中に若干の秩序が生まれ始めた。『料理と掃除のコツを教えてくれる人が見つかった』と、敦一がタッパーに入った煮物をビニール袋から取り出し、夕食に並べるべくレンジで再加熱しながらぶっきらぼうに呟いたのが印象に残っている。  母はその後快復したが、敦一は部活に復帰はしなかった。野球部は練習がハードで、とても家の手伝いと両立できないと判断したとの言だった。  育ち盛りが2人もいる家庭だ、貯蓄は少なかったが、父名義の住宅ローンは返済がなくなり、労災と生命保険と慰謝料と遺族年金と、当面の暮らしは何とかなるだけの金の見通しが立ち、峯岡家は安堵した。加害者ではなかったのは本当に本当に不幸中の幸いだ。数年前からパートに出始めた母の収入だけではとうてい立ちゆかない。貧困による学業断念の例が頭を掠めたのは慎二だけではあるまい。慎二は義務教育だが、敦一は本当に学校を辞めると言いかねなかった。  実際、敦一は大学進学を渋ったが、「将来、浅海との子に金銭面で苦労させたくなかったら、賃金は多いほうがいい」と焚き付けて通学可能な隣県の国立大に潜り込ませ、慎二もまた公立の高専へと進んだのだった。  天気予報を調べてはいなかったのだが、目覚めてみれば雨が去ろうとしているところだった。  夜半から明け方にかけて降った雨に濡れたベンチはとうてい座れるものでなく、公園にでもと思案していた慎二の思惑は外された。仕方が無いので朝食に近所の昭和感漂う喫茶店に浅海を誘う。こう、エアスポットのように存在する店は平成も30年近いのに揺るがなさに感心する。料金も普通、味の方も普通なのだが、量とコーヒー2杯目までお代わり可に釣られてこのあたりの学生がふらりと寄って行くにはちょうどいい店である。また、年配の常連客がいるので、学生もむやみに騒いだりしない。そんなところが慎二には居心地が良い。 「オレはちょっと学校に顔出さなきゃなんだけど、あさちゃんはどうする」 「しんちゃんちでごろごろしてる。最近アレ以外でも忙しかったし、ちょっとのんびりしたい」 「そう」  その場で浅海に部屋の鍵を託し、マンションの前まで一緒に戻った後、慎二はそのまま駐輪場に向かった。一階部分の手前が駐車場、奥が駐輪場となっており、駐輪スペースが表からはすぐには見えないためか、質の良い自転車も並んでいる。慎二は大学構内での盗難が厭なので大分くたびれたシティサイクルに乗っている。  研究室に着くと、同期の逢おう坂さかがくたびれきった顔をモニターから一時こちらに向けて出迎えてくれた。どうやら徹夜のようだ。慎二も自分の机につき、昨晩急な呼び出しで中断したシステム点検を再開する。低いモーター音と時折キーボードをたたく音が響く研究室はけして静かとはいえないのに静謐で、人の少ない午前中は慎二のお気に入りの時間帯だ。  ふと思い立って、逢坂にこのあたりの女性向けな旨い飯屋を聞いてみた。普段カップ麺で生きているのでまったく期待していなかったのだが、教授の奢りで行った店が良かったと返ってきた。それをスマートフォンに登録し、それとは別に調べ物をするためにブラウザを立ち上げた。 「おいしい! 薄味なのにしっかり出汁が効いてるね。あごだし? 九州系…?」  メールで駅前集合を知らせ、時間に着いた慎二は自転車を空きスペースに停めて逢坂から聞き出した和食系創作料理店に浅海を連れて行った。浅海は昔から洋食より和食を好む。教師役だった祖母の影響だろう。  目を輝かせた後、睨むように椀を啜る。彼女が拘る違いは慎二にはわからない。相槌は返さずに箸を進める。確かに旨い。夕食としては少々高いが。 「ここ、来たことないって言ったよね?」 「うん。教えてもらった」 「女の子?」 「まあ、そうだね」  逢坂の性別は確か女性だ。 「ホントに仲良い女子がいるんだね」 「この店教えてくれた奴は同期だよ。同じ研究室の」 「なんかしんちゃんの学校って、男子しかいないイメージだったから……あ、でも相変わらずモテてる? そっちは女の子に囲まれてるイメージ」 「えーと、工学系だって女子はいるよー。特に上にいくと就職難でむしろ女子率上がる。ただ、確かにもともと少ないし、その女子も、残ってるのは尖りすぎてむしろお互い尊敬かつライバルかつ同じ穴のムジナ的存在になるし、あんま男とかわんないなあ」 「ライバルかあ……いいなあ、しんちゃんに尊敬とか対等な関係とか言ってもらえるなんて、うらやましいなあ」  なぜか浅海が悔しそうで笑ってしまう。ライバルという言葉が選択ミスだろうか。どうもニュアンスが違って聞こえる。合う頻度こそ違えても、一番近しいのは浅海だというのに、その本人が膨れてるのがおかしい。  それから話題は浅海の実家と慎二の家の近況に移った。今は一人暮らしになった母はモバイル乙女ゲーにハマって浅海を勧誘するらしい。なんでもパート仲間から教わったそうだ。あまり行き過ぎた課金はしないようにメールするべきだろうかと訊いたら「イベントは困ってるみたいだけど、職場でキャーキャーするのが楽しいからゆっくりでいいんだって。大丈夫じゃない? それより普通のメールしてあげてよ。お義母さんだって便りがゼロじゃ寂しいでしょう」と苦言を呈された。浅海の方は数年前から祖母が足を悪くして主に彼女が補助をしてるのだが今週は大丈夫なのだという。「どうなるかわかんなかったから、前から美咲(みさ)に頼んどいたの。あの子も普段は平日忙しいけど、その辺は交代でね」自身の結婚に合わせて浅海は働き方を変えた。当時浅海の父と慎二達の母はどちらも同居を希望せず、別世帯を作るよう勧めた。しかし浅海の祖母の軽介護はフルタイムで働く妹と父には任せられない。そのために浅海は周到に準備をしていた。会社が要登録な資格を取得しておいて、人事部に掛け合ってフルタイムの正社員から短時間正社員へシフトしたのだ。そんな方法があるのかと当時の慎二は感心したものだ。世の中いろいろな働き方がある。ともかく、今はみな元気にしているらしい。「お父さんの血糖値が不安なだけ」だそうだ。  だが確かに、いくら浅海が働き者でも抱えてるものが多いのではないだろうか。普段好き勝手にしている慎二が言える口ではないが、のんびりしたいという浅海の言葉は本音なのだろう。  一日浅海がいたお陰か普段の帰宅時よりほんのりあたたかい部屋で、今晩は場所を代わろうと提案された。 「いいよ別に。寝心地いいわけでもないし」 「だから代わるんじゃん。家主しんちゃんなのに。それかこっちで一緒に寝れば良いよ。あたし太ってるとはいえ、もう1人寝るスペースくらいあるし」 「いや、いくらなんでもそれは」 「だってしんちゃんに風邪引かせたくないの」  正直なところ億劫ではあったが、面倒見の良い浅海に押し切られた。上掛けだけは別々にして、ベッドに横たわる。浅海の提案通り、昨晩よりは温かかったが、いかんせん狭い。浅海の体型云々は別にして、狭い。そして慣れない。暗い天上を見上げ、肩を並べた浅海がポツリポツリと言葉を繋ぐ。 「バイトの子って、みっつ下で、かわいくてモテる子で、ただし男慣れしてる子なんだって」 「なんでそんなこと知ってるの」 「のぶくんの部署の人達は結構顔も名前も知ってる人多いから。呼ばれて飲み会行ったことあるし、酔っ払いを連れて帰ってきてもらって、お礼に泊まってもらったりしたことあるし。その子も、実は面識ある」 「うわー……。その状況で兄貴喰おうって勇気あるなあ。無謀というか」 「そういう子の摘まみ食いだから事故みたいなもんと、のぶくんが主張しておりました」 「うわあああ、兄貴大人気ない」  どちらにせよ、理解不能だ。  軽く身体を傾け、浅海がこちらを向く。 「でもあたしよりずっとかわいくて美人さんで多少肉食でも許されちゃうレベル……。世間のさ、太った女に対する残酷さって、人格否定レベルでさ、あたしなんか見てないの。  しんちゃんには絶対わかんない、コンプレックスが刺激されるこの感じ……。ねえ、なんでそんなに他の人のこと気にしないで生きられるの」  なんでと言われても、困る。慎二にはそれが常態なのだから。逆に、浅海の抱えているものが存外深くて狼狽える。 「あさちゃんってそんなに太ってる? オレの知り合いだと成人病まっしぐら体型の男とか何入ってんのって思うけど……」 「痩せてないオンナは駄目なの」 「それも極端なステレオタイプの発言だと思うなあ」  性的欲求はともかくとして、慎二にだって美醜は判断できる。浅海は確かに美人ではない。痩せてもいない。だが人好きのする笑顔と昔から変わらぬ安心感が損なわれることなく、兄も自分もそういう浅海が好きなのだ。それでは駄目なのだろうか。 (―――いや、兄貴がこうなったから、揺らいでるのか)  浅海は高校生の時分から、慎二を受け止められるほど器が大きかったのに。それはずいぶん素晴らしい資質だ。それは浅海の外見になんの関係もない。  美しいということは、それほど飢えなければいけないことだろうか。  慎二は自分の外見が『いい』ということを知っている。今はこれをスピーチや広報活動に利用している。周りも便利に使っている。使えるものは使わなければ現実問題としてアピール不足の研究は予算が削られるばかりだ。なので確かに助かってはいる。だが、アイデンティティとしては長い間煩わしく苦い思いをしたものなのだ。そこまで素晴らしいと自分に酔えるものではない。  こんなものより、浅海の内界の深さの方がよほど素晴らしいと慎二は思う。  だが残念ながら、ひとは自分にないものを求めるのも一面だ。常には見せない浅海の妬みが痛い。 「でもオレは、あさちゃんがいいよ。あさちゃんがいなかったら、オレはもっとコミュ障で女子とか目の敵にして見た目なんてグダグダになってた自信ある。あさちゃんのお陰だよ」 「…………―――うん」  それでも……と、小声が浅海から零れた。 (あたしも欲しかった?)  殆ど聞き取れず、しかし単語はそう綴られたように感じた。  慎二に言えることはもうない。聞こえなかった態で寝返りを打った。  普段1人で寝ているベッドに別の熱源があるのが落ち着かない。やはり昨夜の場所に移ろうかと、うつらうつら浅い眠りを漂っていると、とっくに眠ったと思っていた浅海から声が掛かった。 「ねえしんちゃん」 「まだ起きてたの?」 「うん。……しんちゃんって、まだ女の子としたこと、ない?」  いきなりなんだというのか。 「まあ、行きずりも恋愛もないからね」 「してあげよっか。興味はあるでしょう。ねえ。しんちゃんは、秘密を守れる人だから、教えてあげる」  全身が粟立つ。  甘い、猫なで声。瞬間そこには慎二の忌む《女》がいた。こちらの気持ちを斟酌せず、好意というのもが至上であるかのように押しつけ、享受を強制する善意という悪意。久々に、しかし瞬時に甦った嫌悪感。  だが。  今は義姉となった女性の発言に、慎二は身を起こして隣を見た。同じくこちらを向く彼女の目に、滲む液体を確かめて溜め息をつく。 (直感を信じろ)  頭の中で10カウントをとる。 (直感は蓄積された経験の警告だ。違和感を言語化するんだ) 「しんちゃんのこと、ずっと好きだったよ。だけどもしこのままのぶくんと別れても、しんちゃんに付き合ってなんて言わないから安心して。でもね、あたし、しんちゃんの初めての人になりたい」  言葉の内容も、声音も、甘い。彼女の目は切実で、そして。  怯えていた。  慎二はもう一度溜め息をついた。 「―――本気だとは思えないな」 「……なんで」 「あさちゃんはオレを知ってるから」  これは一体なんの賭なのだろう。浅海は何をベットしているのだろう。浅海から視線を外し、のろのろと縁へずれた。 「……………」 「たぶん、これはいわゆる据え膳で、タナボタなんだよね。心理的距離の近い男女が体感的にも距離を縮めることで、ハードルが下がるんだ。ようするに、『流されちゃう』。そこはオレも想像つくよ。でもあさちゃんはオレが流されない側な人間だって知ってる。ということは、本気でどうにかなりたいわけじゃなくて、言っても後々困らない相手にあたってるに過ぎない、と推測が立つ」 「旦那の弟なんて、後々困る相手の筆頭じゃない」  ごねるような詰るような低い声が隣からまとわりつく。  けれど。 「『オレなら』困らない、なんでしょ。あさちゃん、あさちゃんに卑屈な計算は似合わないよ。兄貴のことはゴメン。でも、あさちゃんに兄貴の嫁さんやめられるの、すごい困る。許せないと思うけど、許せなくてもしょうがないかなとも思うけど、許して欲しい」 「しんちゃん非道い……こんなときばっかり普通の兄弟みたいに庇うなんて。わかるよね、公平に見て、あたしに非はなくて、のぶくんが悪いって。なんであたしが我慢しなくちゃいけないの!? こんなに悔しくて悲しいのに、しんちゃんはのぶくんの味方なの!?」 「味方じゃないけど、それを理由にあさちゃんを選ぶのはできないよ。オレ、あさちゃんのこと、世の女の人の中で一番好きだよ。でもそれは兄貴の横で笑ってるあなたなんだ。『家族』ならわかるんだ。あなたが家族になって、嬉しかった。『家族』は好きでいることに理由がいらないんだ。それを教えてくれたのは兄貴で、兄貴のそばからあなたがいなくなるのは悲しい。兄貴が落ち込む姿を見たくない」  慎二ももう兄しかいなかった小学生ではない。もう24だ。その過程で、いろいろな人に出会った。経験と学習で、自分の理解力も上がっている。浅海の言葉の全てがけして裏付けがないわけでなく、自暴自棄からの発言でないことはうっすらとわかる。だが慎二側には浅海に特別な感情はない。浅海と敦一では兄を選べてしまう。たとえ追い討ちになろうとも、偽りの慰めはできなかった。  浅海から、涙が零れた。それまでは彼女のこんな姿は見たことが無かったのに、この2日間で何度目にしただろう。普段なら、鬱陶しいだけのものなのだ、女性のそれなど。けれど浅海のものなら同情と愛おしさが胸に湧く。これも親愛のなせる技だ。これを失いたくない。慎二は自分の胸にある感情を失いたくない。誰かが泣いてる姿が愛おしいなんて。なんて人間らしくエゴに満ちた愛情。 「ゴメンあさちゃん、兄貴が余所よそでつまづいて。でも兄貴の一番はあなたで、オレの一番もあなただよ。オレは嘘はつかない」 「ばか、みんなバカ! ずるい、こんなに苦しいのに、あたしばっかり……」  上掛けを巻き込むように慎二に背を向けて、浅海はうずくまりむせび泣いた。低い慟哭が、慎二を衝く。  結局自分も己の欲求を優先する人間だ。彼女の八つ当たりに乗るよりも今まで通りの関係に戻ることを画策している。浅海が求めるような公平さは発揮しないだろう。彼女は人選を間違えた。同情が欲しいなら女友達、共犯者が欲しいなら別の男にするべきだ。 (でもどうなんだろう、現象だけ見れば確かにあさちゃんも他の男とすれば同一条件は手に入るけども。だいたい「秘密」って言っても、兄貴に当てつけならバレ前提じゃないのか?)  そんなややこしいことは勘弁願う。  そんなものにリソースを割くつもりは毛頭無い。 (だけど他の男なら現実的かというと、女の人は不利が多すぎないか? 避妊の心配は女性だけだし写真撮られたりネットに上げるような奴もいるだろうし。こういうことで『信用のおける』『バレても困らない』男なんていないだろ結局。そこまで考えて、オレが残ったなら、もう前提条件が歪(ひず)んでる。本当にそれを求めてるとは思えない。  ―――とんでもない女の人もいるのは知ってるけど、あさちゃんが当てつけで誰でもいいと割り切れるタイプ、には見えないんだよなあ。そうであればオレの推測は正しいことになる。  とはいえ、オレの知ってるあさちゃんが全てじゃないのはもう真理で。というか、むしろ知らないことが多いんだろう。こんなあさちゃんは知らない。女の臭いのするあさちゃんなんて。  やっぱり女の人は難しい。あさちゃんですらこうなのに、他の人なんて、複雑怪奇な思考回路を読み取れる気が全くしない)  他人だから、第三者だから、持たざる者から視るから―――当事者ではないからこその視点なのに、慎二のスタンスが根底から揺らぐ問題である。むき出しの混沌は対処できない。慎二はこの場での解決を諦め、三度(みたび)の溜め息を落とした。 「あさちゃん、ほんとはひとりにしたくない。だけどオレがいて苦しいなら、研究室行くから。あとオレ、明日兄貴に会うよ。話してくる。でもここには連れてこないから。また明日の夜戻るね。食事は悪いけどどっかで済ませて」  敦一に会うというところで振り返った浅海に涙目で睨まれたが、慎二は怯まなかった。自分が使っていた上掛けを浅海に被せ、ベッドを降りる。デニムに穿き換え、寝間着がわりの長袖シャツにセーターを重ね、ダウンジャケットを羽織り自転車の鍵と財布を掴む。 「言っとくけど、ここから出てくのはナシね。あさちゃんはバカなことしないって信用して置いてくんだからね」 「しんちゃんのばか」  布団の塊から返事ともつかない詰りが投げつけられる。 「鍵、閉めてくよ。テーブルにスペア置いとくから。オヤスミ」  もうなにも返ってこなかった。

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